2013.03.04
“幸せを掴もうとしない”ことで始まる、幸せな人生―ネット寺院開祖 松本紹圭師のライフキャリア論[2]

“幸せを掴もうとしない”ことで始まる、幸せな人生―ネット寺院開祖 松本紹圭師のライフキャリア論[2]

従来の価値基準が揺らいだ現代を“自分自身と向き合える時代”と言い、自分にとっての“成功”を各自で定義することが必要と語る松本紹圭さん。これからの時代を生きるための重要なヒントとなる“ご縁”という考え方とは?

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▼インタビュー第1回はこちら
自分にとっての“成功”をどう定義すべきか?―ネット寺院開祖 松本紹圭師のライフキャリア論[1]  から読む

今を生きる我々は“幸せ”や“豊かさ”をどう定義すべきか?

― 自分にとっての“成功”とは何か、きちんと考えるべき時がきていると仰いました。今を生きる我々が“豊かさ”や“幸せ”をどう定義するか、という問題だとも言えるかと思います。


これまでの日本人の誇りは、かなりの部分が“数字”によって保たれてきました。世界第2位の経済大国だとか、GDPがどうだとか。その数字を上げていくことによって、「我々は幸せなんだ、豊かな国に生きているんだ」と、そこにプライドの一つを置いてきたわけです。

ところが、中国をはじめとした国々がどんどん伸びてきて、その前提が揺らいできました。日本に生きる私たちのアイデンティティは、これから何になるのだろうか。経済一本槍でやってきたけど、そこではもう勝てないんじゃないのか。そのようなメンタリティが生まれてきているように思います。

例えばフランスをみてみると、世界の中での存在感であったり、豊かな暮らしぶりであったり、経済以外にも、それなりにプライドを持っていけるものがあると思うんです。それと同じように、経済以外に目を向けたときに日本には何があるんだ、と、そういう岐路に立たされているんだと思うんですよね。

経済で世界第2位といっても、生活の豊かさを実感できるかと言われると、実際そうでもなくて。確かにモノを消費するという点では豊かなのかもしれませんが、暮らしぶりの豊かさという点でいえばどうしても疑問符が浮かぶ。海外旅行をして、経済的な指標は日本のほうが高いんだけど、現地の国の人たちがすごく良い暮らしをしているようにみえた、そういう経験をなさった方も少なくないと思います。



― 我々は経済的な豊かさを“幸せ”と思い込んできた、と。


幸せというものが、数字によって置き換え可能で、蓄積可能なものだと考えてきた、ということもできますね。そもそも経済社会というものが、「数字で幸せを貯めることができる」という幻想のもとに、人を働かせる仕組みだとも言えるでしょう。

しかし、幸せは元来、掴んだり貯めたりできるものではないんです。人と人が居合わせるところに生まれるもの、人と人との間に生まれるものです。

たしかに、人生を生まれてから死ぬまでの時間軸でみると、「いま自分がどのあたりにいて、どれくらい成功しているのだろうか?」という見方もできるとは思います。

ですが、実際にあるのは、今という一瞬一瞬でしかありません。この瞬間、過去には戻れませんし、未来に行けるわけでもない。その一瞬一瞬を、どれだけ豊かな心で生きていけるか、それだけだと思います。

そして、その瞬間瞬間、周りにいる人たちとの関係性の間に、“幸せ”というものが生まれてくるんです。

まずは、幸せが“掴んだり貯めたりできるもの”だという考え方をやめてみることが大事になってくると思います。

“縁”という見方で、世の中を捉え直すべし

― “幸せになる”“豊かになる”という考えを捨てたときに、自分の生きる拠り所となるものは何なのでしょう?


そうですね、少し見方を変えてみましょう。幸せを掴んだり貯めたりできると思っている人は、それをどんな器に入れようとしているのか。“自分”という器に入れようとしているわけです。この行為をやめるということは、自分というちっぽけな器を捨ててしまうこと。ちっぽけな器を後生大事に持っていた、その態度を捨ててしまうこととも言えます。

そこで拠り所となるのは、先ほど申し上げた人と人との関係性、つまり“ご縁”です。

私は、これからの時代の幸せな生き方を考える上で、“縁”という見方で世の中を捉えることが、非常に重要になってくると思っています。

仏教では“縁”というものをどのように考えているのか。ひとつ良いお話があるのですが、“インドラの網”というお話をご存知ですか?


― 初めて聞きました。


華厳経によく出てくるお話なのですが、“自分という存在が一体どういうところにあるのか”を端的に比喩にしたものです。

インドラとは、いわゆる“帝釈天”のこと。インドラの網とは、帝釈天の宮殿を飾っている“網”のことを指します。



多くの方は、いまこの世の中に、確固たる“自分”というものが存在していることを疑いはしないでしょう。

ですが、仏教では、世の中の在り方はそうではないと説きます。では、世の中とはどう在るものなのか、自分とは何なのかというと、世の中はインドラの宮殿にある“網”のようなものであり、自分という存在は、その中の“網の目”のようなものだと表現するんです。つまり“自分”というものは、網の目のように“実体のない”ものに過ぎないんだ、と。

ちょっと“網”を想像してみてください。その網を構成する“ロープ”自体は確かに存在していると言えますが、“網の目”はそのロープが絡み合ったところに生じたものであり、網の目そのものが実体をもったものではありませんよね。ロープあってこその網の目です。

そのロープに当たる存在を、仏教では“縁”と表現します。つまり、“私”という存在は、さまざまな縁が絡み合っている中で、たまたま“結び目”として表れているに過ぎないのです。

“インドラの網”の話では、その結び目一つひとつに“宝石”がある、と言います。すべての結び目に宝石があり、それらが互いに照らし合うことによって、一つひとつの宝石が輝いているんだと。

自分も一つの宝石として周りを照らす存在であると同時に、他の宝石から照らされる存在でもあるわけです。それが、“縁”という考え方にもとづいた世界の捉え方であり、仏教における、正しい自己認識のあり方なんですね。


― 自分という存在は、他の人との関係性の中で生まれるものだ、と。


ええ、そうです。自分の存在が、他のものから独立して在るなんてことは、絶対にあり得ない、と。


― ある意味、豊かさや幸せとは何なのかを考えることは、自分と周りの人たちとの関わり方を考えることに近いのかもしれませんね。


自分が輝こうと思ったら、自分だけが輝くことを考えるのではなく、他の無数の宝石の輝きを照らすために、自分を輝かせるのが道理ということですね。


― なるほど。そうすれば、他の宝石の輝きによって、さらに自分も輝いていく、と。今って、人との関わり方について改めて問われている時代だとも言えそうです。


そう思いますよ。よく友人と話をするのが、“人材がコモディティ化するコミュニティ”で生きるのはとてもしんどいことだ、と。「この人がいなくなっても、誰か他の人を連れてくればいいや」と、そういうことがまかり通る社会は、人として非常に生きづらいということです。

自分が“縁”の中にあるんだと実感できるような人間関係を持つことが、これからの時代とても重要なことになってくると思います。

ひと昔前だったら、その役目を“家族”というコミュニティが担っていたのでしょうけどね。今は一人の方も多いですから、必ずしも家族である必要はないと思います。志をともにする仲間でもいいでしょう。そういうところで、“縁”を実感した生き方ができるかどうかが、幸せな人生・豊かな人生というものの本質だと思います。



(つづく)
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ジョブズに学ぶ“死のレッスン”―ネット寺院開祖 松本紹圭師のライフキャリア論[3]


編集 = CAREER HACK


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