「はてなブックマーク」の開発者であり、またGREEにてソーシャルメディア開発を指揮した経験も持つ伊藤直也さん。この10年、日本のWeb業界の第一線を走り抜けてきた彼は、「ソーシャルメディア」というものをどのように捉えているのだろうか?
伊藤直也―。この10年、日本のインターネットビジネスの第一線で活躍しつづけてきた紛れもないトップエンジニアの一人だ。「はてな」の屋台骨を支えるCTOとして主要サービスである「はてなブックマーク」を開発。その後、フィールドを「GREE」に移し、ソーシャルメディア統括部長としてソーシャルゲーム・プラットフォーマーとしての急成長をエンジニアリングの面から支えた。
一方で、現在の「ソーシャルメディア全盛」の状況に対しては、やや懐疑的な立場をとることもあるのだという。それは一体なぜなのか?エンジニアとしてのキャリアの大半を“ソーシャルメディアの作り手”として駆け抜けてきた伊藤さんが、ソーシャルメディアというものをどのように捉えているのか。ご自身のインターネット観を交え、語っていただいた。
― はてなダイアリーにも書いておられましたが、伊藤さんは今のソーシャルメディアのあり方に対して懐疑的な立場をとられているそうですね。
そういう部分が少しありますね。まぁ以前の…「はてな」などの会社にいた頃であれば、「ソーシャルメディアを○○すべき3つの理由」みたいな形でお話していたかもしれませんね(笑)。あれからそれなりの時間が経って、少し頭も冷えてきたんでしょうね。ソーシャルメディアが世間一般で大袈裟に捉えられ過ぎているようなのを見ると、ちょっと首を捻る、冷や水をかけたい気持ちにもなる。とはいえ、別に悪いものだと思っているわけではないので、浴びせ過ぎるのも違う。立場としては、褒めすぎず否定しすぎず、そういうところにうまく落ち着きたいと思っています。
― 第2回 CAREER HACK MTGの審査会では、ソーシャルメディア上で肯定的な意見しか集まってこない状況は問題だと仰っていました。
Facebookが最も象徴的なんでしょうけど、何か書いて「いいね!」と言われると、自分自身が承認されたような気分になって気持ちよくなってしまう。それから、Facebookは自分の書いたことにリアルなアイデンティティが紐づくサービスなので、どうしても取り繕ってしまうというか、格好つけてしまう。読んでいる側からすると、場合によってはそれが酷いポジショントークに見えてしまって、違和感を抱くことがある。乱暴な言い方をすると、気持ち悪く感じるんです。そういう自分もFacebookに書き込むときはついつい意識して「いいこと」を言おうとしてしまいますし、「いいね!」されると、それだけで気持ちが満たされちゃうところがある。個人として冷静だとか感化されやすいとかいう話ではなくて、あのサービス自体がそういう性質を持っているということだと思います。
すこし前だとリアルなアイデンティティに紐づいたソーシャルメディアはむしろマイノリティで、特に日本ではブログとかTwitterとか、自分のリアルな情報は出さずにネット上のハンドルネームだけで語るという世界が主流でした。mixiもあったけど、匿名性を担保する方向に進んでいったしクローズドな世界だった。だから普段ネットをしていてそういう妙な書き込みが目に入って違和感を覚えるというようなことは少なかったんですけど、最近は…まぁなんていうのか、お気に入りの自分撮り写真をFacebookのプロフィール画像にした人が、Yahoo!のニュースなんかにコメントして「いかにもいいこと」を語っているのを目にするようになった。本人たちは、自分の友達に向けて書いてるつもりなのかもしれないけど、ニュースのコメント欄とかにそれが載ってますよね。かつてのインターネットの雰囲気からするとすごく違和感のある感じ。
例えば「オリンピックで○○選手が銀メダル」というニュースには、2ちゃんねるで辛辣な書き込みがなされている一方で、Facebookでは「よくやった!」とか「叩く人は多いけど俺はそうは思わない!」なんて真逆のコメントばかり並んでいる。どちらがいいというわけではないんでしょうけど、そういう偏りがある。そういう状況にも関わらずFacebook的なものだけが取り上げられる所なんかを見ると、うーん…と思うこともありますよね。
ツールとしてのソーシャルメディアっていうのは、かつての「掲示板」が15年くらいかけて形を変えただけだと思うんです。道具は「掲示板」 と変わってないはずなのに、必要以上に価値づけされてしまっている。本当は、ソーシャルメディアはインターネットで人をつなげるだけの役割のもの、それが転じて「たくさんの人がインターネットをやってなかった時代には起こらなかったことが少しは起こるかもしれませんね」と、その程度のものなんだと思います。自分はそういう認識で、冷静に見ていきたいところがあります。
― インターネットの在り方自体が、時代の流れとともに変わってきている部分もありますよね?
そうですね。日本のブログサービスの草分け…《livedoorブログ》がリリースされたのが10年前くらいですか。当時はウェブ日記があってホームページがあってブログがあって…という、今からするとすごく牧歌的な時代でした。それが今やFacebookがあってTwitterがあって…Tumblrもあって。一方ではPathのようなものもあって、LINEもある。ソーシャルメディアを使うための敷居がすごく下がったのと、リアルなアイデンティティが表に出る機会も多くなって、それぞれのコンテンツ、テキストが、普段何をしている人がアウトプットしたものなのか分かるようになった。その変化はやっぱり大きいです。
ブログが主だった頃とか、それこそ僕が《はてなブックマーク》を作っていた頃は、まだまだインターネットはマスから嫌悪されたりする対象でした。「あんなところにくだらないこと書きやがって」と言われる、ちょっとカウンターカルチャー的なものだった。
そしてその、自分が作ったサービスのはてなブックマーク上で、ネガティブなコメントがたくさん発言されるようになって、ブログの運営者から名指しで批判されたこともあります。「はてブのせいで…」という言い方で非難されることもありました。それをみて「何だか悪いもの作っちゃったのかな…」と責任を感じたようなときも正直ありました。
でもそれからmixiが大きくなっていって、Twitterが出て、Facebookが出てきてだんだんとソーシャルメディアがマスにまで浸透していった。結果として、ソーシャルメディアが良いものだって語られる機会も増えていった。
そういう経験がある自分からしたら、インターネットが時代の流れとともに変わったのはそう思うけど、かといってネットの毒がなくなってすばらしい物になったとかそんな風には思ってなくて。だから褒めすぎず否定しすぎずであるべき、という気持ちでいます。
あと最近その新旧サービスそれぞれを改めて比べてみても、今もてはやされているいるFacebookもLINEも含め、やっぱりどのサービスにもいい部分とそうでない部分…毒があるなって思って。万能なサービスなんてない。結局、いろんなサービスによって「インターネットを相対化してみることができるようになった」ということだと思ってるんです。
Windows95が出てインターネットがコンシューマに広まり始めてた当初は、それを後押ししたのはヒッピー文化の延長みたいなものだったんです。オープンでカウンターカルチャーで、とにかく先鋭的で。それこそ可能性の宝庫だった。そんな「インターネット最高」という高揚した時代から始まって、そのうちいろんなコミュニティなんかも作られて、ちょっとずついざこざも起こり始めた。それからブログができて、SNSができて、Twitterができて、ITリテラシーの高低関係なく発言できるようになった。そうしてどんどん間口が広がっていくとともに、インターネット創成期の輝きというか、価値のようなものは相対化されてしまった。
それは自然な流れでもあるんです。だからそういう視点でもっても、必要以上に「ソーシャルメディアが○○を変える」なんて言うもんじゃない。確かに、何かのサービスがきっかけで新しいものも生まれるし無かったことも起こるでしょう。それはそれでいいんですが、決していいことばかりが生まれたり起きたりするわけじゃないので...考えなしに持ちあげるのはおかしいと思います。
― やはり相対化される以前、限られた人のためのインターネットのほうが良かったと?
全部が全部「当時は良かった」だとただの懐古主義なのでそうではないと思いますけどね。
僕自身の話と一般的な話と分けてお話すると、まず一般的にみて、特に1995年〜2000年までにインターネットにコミットしてきた方々には、「インターネットが随分と違うものになっちゃったな」という印象が少なからずあるだろうなと思います。僕と同世代か少し年上の方はそうおっしゃる方も多いですね。
彼らが希望を抱いていたインターネットってその創成期の雰囲気100%だったときの姿なんです。オープンソースでみんながいろんなものを作って、そんなやり方でうまくいくわけないと思われていたところから、Linuxとか、すごいものが次々と生まれてくるし、Wikipediaをみて「不特定多数の人間でこんなものが作れるのか」って驚いて。ブログを書けばたくさんの人に読んでもらえて、議論も深まる。「インターネットはすばらしい。新しい知的活動のあり方だよ」って、そういう時代です。
徐々に間口が広がってきて、エンターテイメントや娯楽のためにも使われるようになって、ソーシャルメディアが広がって、知的生産活動だけでなくインターネットを、ウェブを、ただのコンテンツとして消費する使い方も増えてきた。いや、別に娯楽が悪いという話じゃなくって、実際としてそうなっていったということですよ。
その創成期の頃をよく知る人たちは、ある意味、"インターネット"という"道具"が人間の"精神"まで変えるんじゃないかと本気で考えていたと思うんです。インターネット上でのあらゆる活動は、やがてオープンソースやWikipediaのように、かつてはなし得なかった領域に到達するって。でも実際にはその創成期のインターネットというのは、当時ネットに接続するには技術的な知識もお金も必要だったし、インターネットに取り組もうというエネルギーもそれなりに必要だったからこそ「分かっててやってる」人たちばかりが集まっていただけなんです。あくまで彼らにとって良質なコミュニティがたまたま出来上がっていた過渡的な頃だったのに、そこにいた人たちはそれこそがインターネット全体、それがあらゆる人を変える可能性があると信じていた部分があった。
でもインターネットはただの道具です。道具が新しくなったからといって、人間の精神が変わるわけはない。人口と同じだけの人数が流れこんでくると、インターネット上でもネットではない現実の社会と同じようにくだらないことも起こる。そこに娯楽だけを求めてくる人も増えて、かつてのインターネットは相対化されてしまう。
そういう歴史の中で、今のインターネットに「そうじゃないはずだったんだけど」という気持ちが拭えない部分はあるでしょう。例えば、ティム・バーナーズ・リー(WWWを考案したインターネットの生みの親)は最近のインターネットの有り様をアーキテクチャ(設計)の観点含め批判して「インターネットのアーキテクチャが壊れてきている」と言っています。そもそもインターネットは、一つのURLを叩けば、世界の誰もが同じものを見ることができた。そのアーキテクチャがあるからこそインターネットの中立性や民主性は保たれるしコンテンツも中立でいられる、というのが彼の主張で。
でも最近はそのアーキテクチャも崩れてきている。Facebookでは自分が「いいね!」した人のコンテンツが優先的に表示されます。Google検索も今ではパーソナライズされていて、人によって違う検索結果を見ている。Twitterでも自分がフォローした人のツイートしか流れません。なるべく個人個人が見たいと思っているものだけが表示されるようになってきている。見たくないものはネットに存在しないかのように。このままいくとコンテンツの中立性もなくなってしまうから、インターネットのアーキテクチャをもっと基本に沿ったものにしろ、と。イーライ・パリサーの『フィルターバブル(邦題:閉じこもるインターネット)』という本でも同様の指摘がされています。そういったインターネット批判というか、以前と比べて良くないものになってきてるんじゃないの、っていう指摘をする方は多くなりましたよね。
そういう意味で、ある部分では、限られた人のためのインターネットのほうが良かった…と見る向きもあるとは思います。
(後編につづく)
編集 = CAREER HACK
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