普段、何気なく使われている「ゲーム性」という言葉。おそらく多くの人がその意味を意識せずに使っているだろう。一体、ゲーム性とは何なのか?ゲームの原点であるボードゲームの企画・制作を手掛けるOink Gamesの佐々木隼さんに、その問いをぶつけてみた。
【 みんな殺人事件の目撃者。真犯人は、誰? 】
プレイヤーは殺人事件の目撃者。他のプレイヤーの目撃証言と照らしあわせて真犯人を探し出す。だが同じ事件を目撃したはずのみんなの証言がくい違い、真相が謎に包まれていく…。
― 芥川龍之介の名作小説をモチーフにした推理&ブラフゲーム《藪の中》
【 芸術家の中にたったひとりまぎれこんだエセ芸術家を暴き出せ 】
みんなで協力してひとつの絵を描いている中、ひとりだけ何を描いているのか分かっていないエセ芸術家が。いったい誰が当てずっぽうに描いているのか? ただしエセ芸術家に何を描いているのかバレたらゲームオーバー。自分がエセだと疑われないようにしつつ、でもエセに正解がバレないように、うまく描き上げることができるか?
― “お絵描き”に“推理”の要素を組み込んだパーティゲーム《エセ芸術家ニューヨークへ行く》
ちなみに《藪の中》が海外でも発売されるなど、 Oink Games の存在は国外でも注目を集め始めている。そのゲームは、いずれも極めてシンプルなものばかり。そしてデザイン、さらにはカードの手触りにいたるまで、作り手のこだわりがうかがえる仕上がりになっている。こうしたゲームの制作を、すべて一人で手がけているのが代表の佐々木さんだ。
一方で、佐々木さんはデジタルゲームを手がけるゲームデザイナーでもある。例えば、任天堂からリリースされている《Art Style》シリーズ。《HACOLIFE》《AQUARIO》《ORBITAL》といったタイトルは、実は佐々木さんの作品なのだそうだ。デジタルゲームの第一線に身を置きつつも、ゲームの原点ともいうべきアナログゲームを手がけている点はとても興味深い。
余計な装飾が見事なまでに削ぎ落とされたボードゲームは、いわば純粋に“ゲーム性”だけで勝負するゲームだと言えるだろう。だからこそ、ボードゲームをはじめとしたアナログゲームを紐解くことで、ゲームをゲームたらしめているものの根本が見えてくるはず―。そこで今回は佐々木さんに白羽の矢をたて、“ゲーム性という答えの見えない概念”、そして“ゲームの真髄”に迫った。
― 「ゲーム性が高い」「ゲーム性に欠ける」など、ゲーム性という言葉はわりと何気なく使われていますよね。ただその意味を突き詰めようとすると、いまいちハッキリとしない。佐々木さんはゲーム性をどう定義していますか?
正直言って、この言葉を定義するのは難しいです(笑)。同じゲームをプレーしたとしても、人によって「面白い」と感じるポイントが異なるように、"ゲーム性"という言葉の持つ意味も人によって様々だと思います。ネットで検索してもらってもわかるように、ゲーム性という言葉は曖昧なものとして定義されています。
僕自身は、ゲーム性=ルール性だと考えています。映画は映像のメディアで、ラジオはサウンドのメディア、そしてゲームはルールのメディアであると。
もちろん、ルールだけではゲームにはなりません。ただ、最近、「グラフィックはすごく綺麗だけど、面白くない。昔のゲームの方が面白かった」という声を耳にすることが増えていませんか?
つまり、それはゲームの構造自体に面白さがないということじゃないかなと思います。ルールというフレームがあって、はじめてゲームとしての形を成す。それなのに、グラフィックやストーリーなど、いわばソフトの部分だけに注力しているものが多い。ルールづくりが疎かになってしまったことで、自ずと表情の似たゲームばかりが増えてしまっているのだと思いますね。
― なるほど。ただ、“ルール”と聞くと、まず何かを規制するもの、可能性を狭める事を想起しませんか? 例えば、法律とかがそうですよね。
いえ、ルールによる制限があるからこそ面白いんです。法律だってやりようによっては、縛られているという感覚ではなく、より生活を楽しくできるものだと思いますね。
逆にユーザーに自由を与え過ぎてしまうと、選択肢が無限になり、何をしていいのか判断に困りますよね。ルールという制限・制約が現れることで、選択肢が絞られ、逆に想像力を働かせることができるようになります。
例えば俳句には5・7・5という区切りのルールがあります。もし俳句にこの決めごとがなかったら、もはやそれは俳句じゃない。制限があるからこそ、その中で人は懸命に知恵を絞り、想像を働かせ、言葉を紡いでいけるんです。結果、アウトプットにもリズムが生まれます。Twitterも同じで140文字という制約があるからこそ、あれだけのユーザーに愛されたのだと思いますね。
ゲームも全く同じで、ある程度の制限を設けてあげることによって、プレーするユーザーは自ずと考え、そのルールの中で、最適な方法を実践していく。そのルールをつくるのが、僕たちゲームデザイナーの仕事です。いわばルールデザイナーと言えるかもしれませんね。
― 世間ではゲームデザイナー=ストーリーの企画者というイメージを持たれていますが、つまりはルールを企画する仕事なんですね。
ゲーム制作会社の面接で「デザインもプログラミングもできないので、スト ーリーを考えてきました。だから企画の仕事がやりたいです」と話す学生がいるという話を耳にします。
でも、それって「ゲームじゃなくても出来るよね?」って話ですよね(笑)。ストーリーを考えたり、キャラクターを考えることって、小説とか映画とか、別のメディアでも出来ること。あくまでゲームはルールのメディア。ゲームデザインは、ゲームの構造を考え、ルールを設定することですから、一般的な企画者のやる仕事とは大きく違っているといえるかもしれません。
― つまり、面白いゲームには、面白い“ルール”が欠かせないということですね。では、ユーザーを夢中にさせるルールの条件についてお聞かせください。
当たり前と思われるかもしれませんが、ユーザー自身がゲームの中で意志決定を下せること。そのための選択肢が幾つも用意されていることですね。そして、それぞれの選択肢にリスクとリターンがバランスよく配分されていることも重要だと思います。
カードゲームのワンシーンを思い浮かべてもらえればわかると思います。「今、このカードをここで切るべきか。ただ、次に引くカード次第では、大きな役が揃う可能性もある。リスクをとるべきか、リターンをとるべきか」、こんな経験、ありますよね?
こうしたシーンを生むことができれば、それはもう立派にゲームとして成立していると言えます。そしてその選択次第で結果が変化し、「嬉しい」「悔しい」といった感情が生まれれば、人はゲームに対して自ずと夢中になっています。意志決定を促す仕掛けがあり、そこにユーザーの意志が介在することによって、一つの物語が生まれる。物語自体をつくるのではなく、物語が生まれるような仕掛け・ルールこそが面白いゲーム、面白いルールの条件だと思います。
逆にユーザーがどれだけ熟考し、選択しても、その結果が、自分がやろうが他人がやろうが、同じになっては面白くありません。これは最近のRPGにも言えることで。誰がやっても結果は同じ。意志が介在しなくても、ストーリーは勝手に進んでいく。いわば映画に近いのではないでしょうか。
― なるほど。では、あらゆるジャンルのゲームを知る佐々木さんにとっての、ベストなゲームを一つあげるとすると。
う~ん、色々ありますよね。テレビゲームでパッと思い浮かぶのは、やっぱり任天堂の出したゲームですね。スーパーマリオしかり、ドンキーコングしかり、ルールの完成度が高いし、一つひとつの動きのディティールも秀逸だと思います。
でも、究極のゲームを一つだけあげるのだとするならば、「缶けり」ですかね。意外な答えかもしれませんが、缶けりはリスクとリターンの配分が絶妙なんです。
プレイヤーによって蹴られた缶を鬼が拾う間に、みんなが隠れる。その後、数秒たってから、鬼はプレイヤーたちを探しに行くのですが、同時に缶を蹴られないように、守らなければいけません。ただ、缶のことを気にしすぎていても、ゲームは進まない。リスクを冒さないと見つけられないんですよね。
プレイヤーのほうも同じで、リスクを冒さなければ捉えられた仲間を解放できない。ただ、それが成功すると、大きな達成感が得られます。幾つかの選択肢にリスクとリターンがバランスよく配分されていて、それぞれの意志が介在してゲームが成り立っています。
鬼ごっこやかくれんぼの場合、地方によってルールが異なっていたり、派生して「色オニ」などの新しいゲームが生まれましたが、缶けりにはそれがありません。ルールに手を加えられない、加えることでゲームの面白みが崩れてしまう。完璧なルールを持ち得ていると思います。
かつ、缶ひとつとプレイヤーがいるだけで、そこに物語が生まれる極めてシンプルなルールです。ほとんどの人はそのルールを疑いません。面白いゲームはルールを全く意識させないんです。最高のルールとは、自然とその場の空気を作り、楽しくさせるものだと言えるかもしれませんね。
― 最後に、社会にとってのゲームの価値・存在意義について。佐々木さんの見解をお聞かせください。
ゲームデザイナーは人を楽しくさせるルールをつくる人。これからはもっとゲームデザイナーという仕事の重要性が高まり、ゲームという概念が社会の中に溶けて、普通に使われていくようになるのではと思います。
例えば、一つひとつの小学校にゲームデザイナーが一人ずつ入ったとしたら。勉強などの倫理的なことを教える時にも、ゲームの文法を応用することができます。「国語の学力があがらない…」という相談を先生から受けて、ゲームデザイナーが、楽しく学べて学力が上がるようなルールをつくる。体育の授業でも、授業の中に、よりゲームの要素を溶け込ますことによってスポーツが苦手な子でも楽しめて、結果、体力が向上することだって大いにありうると思います。
もちろん、これは企業にも応用できると思います。「ゲーム性を取り入れることによって、より楽しく働けるように」というコンセプトで“ゲーミフィケーション”という言葉を使っているみたいですが、あまり上手くいっていないと聞きます。競うこと=ゲーミフィケーションみたいに定義されていますけど、そもそも間違っています。ルール自体に面白さがないから、プレイヤーたちも楽しめない。
面白さの構造についてきちんと掘り下げて考えられる人、そういうことについて常に考えている人が作るルールじゃないと、きっとゲーミフィケーションは上手くいかないんだと思います。逆にプロのゲームデザイナーがルールを考えることで、もっと仕事も楽しくなるんじゃないかな。
その一方で、“純粋な娯楽”としてのゲームの価値もきちんと残ってほしいですね。最近は、何につけても「効率化」や「意味・意義」ばかりが問われる時代になってしまいました。脳トレなど、プレーすることで何かを得られる、習得できるようなゲームが流行したのにも表れていますよね。
正直、ゲームって何の役にも立たないものじゃないですか(笑)。ソーシャルにせよ、コンシューマにせよ、ボードゲームにせよ、一人ないし誰かの時間を浪費するもの。でも、それがゲームのあるべき姿だと僕は思うんです。ゲームは贅沢に時間を使うための純粋な娯楽です。あくせくと毎日を生きて、全てのことに意味や目的を求めるような人生では、いつか疲弊してしまいます。もっと豊かに生きるために、時間をクリエイティブに使うためにゲームがこの世に生まれてきたということを、忘れないでほしいですね。
僕がボードゲームの虜になっている理由も、仲間とすごす時間、コミュニケーションを味わえるものだから。ゲーム(ルール)はただ存在しているだけで、その時間の中でみんなで腹をかかえて笑ったり、疑いあったり。日常の会話だけでは引き出しきれない相手の一面が、ゲームになるとふと表れてくる。人間って奥深いモノだから、こっちが攻略しようとすると攻略し返してきますし。
きっとプレイする中で、人を楽しんでいる、味わっているんでしょうね。わざわざ一つの場所に集まって、自分、そして相手の時間を使う。非常に贅沢な娯楽だと思います。
SNSなどで誰とでも繋がっている今の時代だからこそ、一つの場所で顔を合わせて、一緒にゲームをやれるということはすごく貴重だと思います。ゲームは、人生を豊かにするもの。ですから、そこに目的を求めるのではなく、コミュニケーションを活性化させる一つのツールとして、その価値を見つめてほしいですね。
(おわり)
編集 = CAREER HACK
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