2015.07.03
「子どもの頃の夢なんてなかったけど、きっと今の仕事をずっと夢見てた」#しおたんレポ

「子どもの頃の夢なんてなかったけど、きっと今の仕事をずっと夢見てた」#しおたんレポ

元CINRAの広報、現在フリーのPRとして活躍する塩谷舞(しおたん)さん。彼女による新連載がスタート!第1回は塩谷さん自身に幼少期~学生時代、これまでの仕事人生を振り返っていただき、「どのように“塩谷舞(しおたん)“が形づくられたか?」「自身にとってのPRとは?」について寄稿いただきました。

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器用貧乏で悔しかったけど、器用貧乏だからできる役割もある


はじめまして、塩谷舞です。
2ヶ月前に、会社を辞めて独立しました。「PR」という肩書きを選びました。

PRという仕事に就くのは、ずっと長い間の夢だったかもしれません。「夢はPR」だなんて子どものセリフ、いまだかつて聞いたこともないけれど。


私は絵を描くこと、文章を書くこと、そして演劇やピアノ、なんでもそこそこ得意な子どもでした。でもそれらが「好き」だったかと言われると、そんなことはなかった気がします。

技術を磨く目的は「舞ちゃんはなんでも上手だね」「すごいんだね」と認めてもらうこと。自分の存在価値をアピールするために能力をチラチラと見せつけてくる、計算高い子どもでした。逆に、運動は大の苦手。性格は引っ込み思案だったし、身体も小さく、友達には馬鹿にされがち。だから「奥の手」をしっかり磨いて定期的に見せびらかさないと、友人はおろか家族だって、誰も振り向いてくれないと思ってたんです。苦し紛れで精一杯の、小さな主張でした。


塩谷舞(しおたん)さん

7歳の頃のピアノの発表会。チャイコフスキー『ひばりの歌』を弾きました。計算高い眼差しです。


そうして芸術方面の能力をたくさん仕入れても、突き詰めるほどに見えてしまう、自分の平凡さ。他の子よりも器用なぶん、限界を察知するのもダントツに速かったかもしれません。夢をみない、つまらない子どもです。

18歳の頃には、総合大学の商学部と社会学部と経済学部と経営学部を全部受けよう…そして留学でもしたら人生の転機が訪れるかもなぁ…だなんて、ぼやけた未来をなんとなく見つめていました。ああ駄目だ、このままだと永遠に、自分の子ども時代にすがった大人になってしまう。そんな不安も、小さく感じつつ…。


そんな時、金槌で撃たれるような衝撃が起こりました。受験勉強の息抜きにと選択していた、美術の授業中でした。

一人の男の子が広げるスケッチブックに、自分の何倍もの才能が広がっているのを見てしまって、釘付けになりました。プロみたいに上手いけど、プロよりも楽しそうに自由に描かれたその線を見て、最初に感じたのは強いジェラシーでした。



「ちくしょう、私がその才能、欲しかったのにな」



でも次第に、「どうして同じ学校にいるのに気づかなかったんだろう」「なぜ彼はしかるべき注目を浴びていないんだろう」と考えると、高校の中の小さなスクールカーストによってその才能と個性が追いやられてしまっているんだと気がつきました。ひょっとすると本人は注目なんて浴びたくないのかもしれないけど…でも、すぐ隣にこんな素晴らしい作品があるのに、それに見向きもしない多くの同級生たち。そんな状況に、疑問が止まらなくなったんです。


自分では生み出せなかった世界、自分よりもっとすごい才能。
ここにいるのに、誰が気づいているんだろう?!


そうして「芸術家のことを伝えられる職業って何ですか?!」と前のめりに美術の先生に聞くと「あぁ、学芸員とか、キュレーターのこと?」は言われました。「じゃあその、学芸員ってどうやったらなれるの?」「美大に行けばいいの?」「美大に行くためにはデッサンを勉強すればいいの?」「えっ、美大ってセンター試験もあるの?!」

未だかつて経験したことのないような使命感に追い立てられ、寝ることも食べることも惜しんでセンター試験の勉強と、デッサンや色彩構成などの技術の訓練に打ち込み、ぶっつけ本番の小論文を派手に突破。私はその春、京都市立芸術大学の美術学部 総合芸術学科に入学できることになりました。学芸員や編集者を輩出する学科です。


「やっぱり舞は器用だけど、ラッキーだったし、今回はびっくりするくらい努力もしたね」


そんな親からのねぎらいの言葉に「うんうん」と涙しながら、努力して手にした環境から続く未来は「学芸員」なのか「キュレーター」なのか全然想像もつかなかったけど、とにかく自分の行く先にワクワクしました。(商学部と社会学部と経済学部と経営学部を全部受けていたら、きっとこのワクワクは得られなかった!)


2年生の終わり頃から、美大生向けのフリーマガジン「SHAKE ART!」を創刊して東京と関西を走り回って営業したり、百貨店での展覧会をキュレーションしたり。細かな出来事はあまりにも長くなるので割愛しますが、どんどん景色が広がり、楽しくもあり、怖くもありました。

ただその背中を押してくれたのは「塩谷さんのブログを読んで、美大に行くことを決めました」「紹介してもらった記事がきっかけで、こんな仕事をもらいました」という声。身近な人も、会ったことない人も、同年代の多くの子たちから、メールや手紙をもらったんです。

引っ込み思案だった子どもはどんどん自信を得て、それと比例して使命感も強くなっていきました。


その後、大阪から東京にやってきて、制作とメディアの会社で働くこと3年。Web制作のディレクションをすることが私の主なお仕事になりました。学生の頃のように、自由気ままにインターネットをするのではなくなり、得られるものが大きい反面、苦しさもありました。ユーザビリティ、表示速度、回遊性、コンバージョン……。学んで学んで、時に喜んで、苦しんで、学びの連続。

今思うと、まるで家を建てる基礎を学ばせてもらったような最初の2年間でした。ぐらぐらで倒壊寸前の家しか建てられなかったであろう私は、小さな一軒家くらいは建てられるようになっていました。


でもやっぱり私は、PRがしたい。


Webディレクターとして働く中で目にしたのは、テクノロジーとクリエイティブが融合されたものづくりの世界と、そこで前しか見ずに作りつづけるクリエイター。ものづくりって、学生時代にどっぷり浸かっていたアートの世界だけじゃない。自分よりヤバいもの作るひとは、いろんなところに、いろんな姿で存在している。

「こんなヤバいモノがそこにもここにもあるのに、私がPR出来ないなんて!」という焦燥感から「独立させてください!」と言った昨年の年末。


はじめのきっかけは、同級生のイラストでした。美大にいる間には、様々な形態の「作品」をPRしました。今は作品だけではなく、プロジェクトも、会社そのものも、あらゆるものをPRさせてもらっている。でも昔から変わらないのは、「自分よりヤバいものを作るヤツを、この世に知らしめなければ」という、どこから湧くのかわからない使命感。




さて、タイムスリップしたみたいに前置きが長くなってしまったのですが、これから私がこのCAREER HACKにて、「自分よりヤバいものを作るヤツ」をどんどん紹介させていただけることになりました。そんな連載記事の前振りでした。

最初からそう言えばいいものを、長ったらしい説明を読ませてしまってごめんなさい! でもでも、これからご紹介するヤバい人たちには、マジでご期待ください。というか、覚悟しておいてください! 私もついていけるように頑張りますので。


撮影協力:バレアリック飲食店


文 = 塩谷舞(しおたん)


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