ロールモデルの少ないWEB・IT業界で、エンジニアとしてどんなキャリアを歩めるのか?話を伺ったのはヤフー社CMOの村上臣氏。インタビュー第一弾の本稿では、業界の第一線で活躍を続ける村上氏のバックグラウンドと“イマ”を支えるキャリアの転機を伺った。
いま、業界の第一線で活躍する人々は、どんなバックグラウンドを持ち、経験から何を学び、いかなるキャリアを歩んできたのか。
まだまだ業界そのものが若く、ロールモデルの少ないWEB・IT業界。彼らのキャリアの軌跡を知ることは、後進のエンジニア・クリエイターに大きな影響を与えるだろう。
今回話を伺ったのは、ヤフー・CMO(チーフモバイルオフィサー)の村上臣さん。「爆速」を掲げる同社で、モバイル部門の成長を一手に請け負う人物だ。
学生時代に『電脳隊』の立ち上げに携わったのち、電脳隊を含むジョイントベンチャー『PIM』の一員としてヤフーにジョイン。Yahoo!モバイルの推進を任される。ソフトバンクのボーダフォンジャパン(現ソフトバンクモバイル)買収にあたっては、約半年間でモバイルサービスの移行と立ち上げを成功させるなど、これまでエンジニア・プロデューサーとしてモバイル一筋だったという。
インタビュー第一弾の本稿では、激動のWEB・IT業界の中心で活躍し続ける村上氏のバックグラウンドと“イマ”を支えるキャリアの転機を伺った。
― 村上さんの経歴を拝見すると、モバイル畑で活躍を続けてらっしゃいますね。コンピュータ・プログラミングとの出会いはいつだったのでしょうか?
プログラミングを始めたのが小学5年生くらいですね。兄とお年玉をかき集めてMSXというマシンを購入し、BASICを学んでゲームづくりから始め、ゲーム音楽を作ることに没頭していました。
あと、子どもの頃からアマチュア無線も大好きなんですよ。小学生で免許を取るくらいガチで、当時から移動体通信が大好きだったんですね(笑)。バイクの古いバッテリーを自転車に乗せて、自前のトランシーバーをつなげたりして。江戸川の土手を走りながら「CQ!CQ!」って言ってるような(笑)かなりギークなオタク少年でしたね。
― エンジニアリングを仕事として始めたのは電脳隊の頃からなんでしょうか?
最初は個人で受託の仕事をやってました。当時はWindows95が出たばかりで、インターネットが世の中に普及し始めるとき。ただ、ネットに繋げたくても設定が難しくて繋げられない人がたくさんいたんですね。そこでなんでもやる便利屋として設定から構築まで請け負うトータルITソリューション(笑)みたいなものををやってました。
その後、友人の紹介で、弊社副社長の川邊と電脳隊を立ち上げ、ずっと受託をやってましたね。
― 電脳隊ではどのようなことを?
電脳隊はただの受託の会社だったんです。けれど、97年に友人のつてでシリコンバレーに遊びに行ったことが、電脳隊や僕の大きな転機となりました。
今でも現役のEZwebやYahoo!ケータイで使われているWAPブラウザや技術を全て持っている、オープンウェーブ社が創業したばかりで、ヴァイスプレジデントを紹介してもらったんです。
ちょっと話をしてみると、でっかいトランシーバーみたいなのを持って「これがモバイルインターネットだ!」ってドヤ顔で言われたんです。はじめはみんな「何いってんの?」って感じでしたね(笑)。
彼は続けざまに「HTMLの記述法に似てるから、お前も書いてみろ」と言うもんだから、簡単にコーディングしてFTPサーバにアップしてURLをいれると、自分の書いたテキストがバカでかいモバイルデバイスの小さなディスプレイに表示されるワケです。
もう「すごい!これブラウザなんだ!」ってみんな感動して。「日本に来たら一緒に仕事しよう」と約束して帰国しました。そして半年後くらいにメールがくると、「IDO (旧日本移動通信、現KDDI)と契約決まった!」って。
― いち早くモバイルインターネットの体験をしたことが、最初の大きな転機となったと。
帰国してからは受託の事業などを譲渡して、モバイルに大きくかじを切りました。その選択がヤフーとの合併に直結していきます。当時、日本でWAPの技術を深く理解できる人って数えるくらいしかいなかったのかな。純粋にエンジニアとしての知的好奇心がくすぐられたし、世界でもいち早く新しい技術を取り込める仕事は本当にやりがいがありましたね。
― ヤフーに入社してからは?
時系列に沿うと、実は一度、新卒で野村総合研究所(NRI)に入ってるんです。
― それは意外ですね…。電脳隊もIDO(現在のKDDI株式会社)と提携し、事業が軌道にのっている時期だったと思います。やりたいことができている状況で、なぜ大企業に?
受託や事業を行なっていく中で、大企業にはよくわからない意思決定のプロセスがあるなと感じてたんです。例えば、「サーバー費を…」と言うと「えぇっと、稟議がですね…」と返ってきて、稟議ってなに?って感じで。
そういうのは、向こう側に立ってみないとわからないんじゃないかと思って、新卒のタイミングで行ってみようと。
― エンジニア枠の採用だったんですか?
そのはずだったんですけど…。新卒同期が150人いて何故か僕だけ、自社パッケージを開発からセールスまでワンストップで行なっている部門に営業職として配属されたんです(笑)。
入社後一ヶ月したら、「頑張って」と先輩の持っている顧客を引き継いで。普通に営業としてプロダクトを売っていました。ただパッケージを売るだけの仕事じゃなかったんですね。お客さんが出す要望をエンジニアに伝えてより業務を改善する仕事。僕にはエンジニア経験があったので、どうエンジニアに伝えたらいいかがわかるんですね。すごくスムーズに仕事ができました。
それだけじゃなく、商談時のプレゼンでは資料だけではなく、自分でVisual Basicでモックアップ作っちゃって見せたりして。そんなコトする人、当時はめったにいないのでめちゃくちゃ好評だったんです。そこで、「動くモノの絶大な説得力」を身にしみて理解しました。
NRIの営業時代に、プログラミングの能力を、エンジニアとしてではなく活かせた経験はすごく大きなものでした。
― その後、PIMに戻り、ヤフーに買収され今に至ると。
ヤフーにはもともと、「モバイルを立ち上げ、強化する」というミッションがある上でジョインしたので、そこからずっとモバイルですね。
僕の中で一番大きな出来事は、ソフトバンクのボーダフォン買収ですね。
エンジニアのリーダーとして出向・赴任したのですが、いきなりキャリアのポータルを任せられたんです。チームを組んで半年後には大規模リニューアルを完了させなければいけないというミッションを背負いました。
半年で変えるとなると、何が何でもやらなくてはいけない状況。エンジニアとして自ら手を動かすというよりは、ディレクターとしての立ち回りをしていましたね。とにかく各部署を説得説得の毎日でした。
― エンジニアとして技術を駆使するというよりも、調整役や企画をするような役割をされたと。
仰るとおりです。この経験はいまの自分に大きく影響していますね。
自分はものづくりが好きで、技術を駆使する仕事してきたんですが、プロセスを変えたり、効率を良くすることで、全体を変えていく。そして人を変えていくところにやりがいや面白みを感じられたんです。当時はあまり気づいてなかったかもしれませんが、やってみたら案外向いてた。
技術を理解しているエンジニアが、技術以外の仕事に就くメリットを自ら大いに理解出来ました。
▼ヤフー CMO・村上臣 氏のインタビュー第2弾
“コードを書かない選択”で生まれる価値|ヤフーCMO 村上臣のエンジニア論
[取材・文] 松尾彰大
編集 = 松尾彰大
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