3歳で視力を失い、10歳の時からゲームをつくりはじめた野澤幸男さん。慶應義塾大学に通いながら「音」で楽しめる自作ゲームを発表。海外からも反響を集めるゲームクリエイターとして活動する。そんな彼だが「“見えない人たち”の世界に留まるつもりはない」と語る。その真意とは。
3歳で視力を失い、10歳からゲームづくりをはじめた野澤幸男さん。
現在、慶應義塾大学、村井純研究会に所属する大学4年生だ。
メディア芸術祭への作品出展など、ゲームクリエイターとして注目を集める。現在、ゲームづくりと並行し、障害を活かしたWebアクセシビリティ研究にも取り組んでいるという。
そんな彼だが、2020年4月、就職先に決めたのがクラウド会計ソフトで知られる『freee』。いちプログラマーとして働くことが決まっている。ゲームクリエイターとしての実績がある彼のキャリアとしては、意外な気もする。
「“見えない世界”だけに留まるつもりはない」
そう語ってくれた野澤さん。
彼の「これまで」と、そして「これから」について伺った。
野澤幸男さんが開発した『Audio Game Center』。プレイヤーはヘッドフォンから聞こえてくる「音」で敵が迫ってくる方向を把握して攻撃。ルールや世界観を音声で共有されたり、コントローラーに工夫が施されていたり、映像を使わない「音だけのゲーム体験」だ。
― まず、全盲でありながら、どのようにプログラミングを習得されたのでしょうか。
プログラミング言語については、ネットで調べつつ、手を動かして自分で勉強しました。完全に独学ですね。まず『PC-Talker』という視覚障害者向けのソフトがあって。パソコン上の文字をソフトが読み上げてくれるんです。あとは実際に手を動かしていくだけ。
一度書いたコードはだいたい覚えていて、エラーがでたときは「このへんのコードかな」と特定することからはじめています。特定できれば、書き換えるだけ。それでもわからなければ、どこまで実行できているのかを把握するために、ログを出して作業することもあります。
あとはググっては書いてエラーが出て、またググって…の繰り返しです。そういう意味だと普通のプログラマーがやっていることとほとんど変わらないです。
ただ、どうしても画面読み上げソフトが読み込まないテキストがネット上にあることも。入門サイトなどに多いのですが、そういった時にはちゃんと読み込むように自分でソフトをいじったりはしています。
― ゲームをやる、ではなく、つくろうと思った原体験について教えて下さい。
もともと音のゲームを作ってる人で「僕はこうやって作りました」みたいなのを公開していたんです。読んで、できるらしい、と。適当にいじっていた。プログラムが動くらしいというのがわかった。そこからはゲームづくりが全てでした。
じつはゲームをプレイしてる頃から開発者の掲示板に「わかんないところ」を書くとかってよくやっていて。今よりもメール送る敷居が低かったかも。毎日頻繁にやり取りしていました。
そもそもゲームをつくる前から、自然とパソコンで遊んでいました。小学生の頃、ずっと友だちがいなくてすごく悩んでいて。なんとか紛らわせるためにパソコンでゲームはやっていました。ゲームしてる時間だけはテンションが上がった。「ゲームをつくる」というのは、大変そうよりも面白い、楽しいことだったんです。
小学校高学年から中学校のはじめくらいまで、かなりどっぷりゲームづくりにハマっていました。…というより、それ以外やっていない(笑)最低限の宿題はやるけど。あとの時間はずっとプログラミングをしてました。夜中までスカイプでゲームについてダベるようになって。親に怒られそうになったら寝るという生活でしたね(笑)
― 最初につくったのはいつ頃ですか?
10歳くらいの頃、ミニゲームをつくりました。2ヶ月くらいでつくってネット上に公開して。自分なりにがんばって宣伝したつもりだったのですが、何の反響もなし。がっかりしていたら、1ヶ月くらい経った時、初めてメールがきたんです。確か「楽しかったです」みたいな反応で。小躍りするくらい嬉しかったですね(笑)
で、ミニゲームでは飽き足らず、中学生になるくらいの頃からRPG的なものを作るようになっていきました。それからは開発スパンがどんどん長くなっていきました。
じつは高校1年の時にできたゲームは1年半くらいで開発したのですが、さらに大学進学するまで、2年くらいかけて英語に翻訳しました。
もともと日本で細々やっていたのに、海外の人に見つかってしまった。「お前、こんなの日本だけでやってるのか、クレイジーだな」と。もともと英語はそこまでわからなかったのでガン無視していたんです。
にも関わらず、「ジャパニーズのゲーム、ハンパねえぞ」みたいな記事が海外で投稿されて。そこから急に海外から「英語で出してくれ」と言われるようになりました。これは困ったなと、だんだん翻訳する気になりました。ようやく2年がかりの翻訳がおわって、リリースしたのですが、海外からの反響がすごくて、それは嬉しかったですね。
ただ、あまりに翻訳が大変だったので、英語版だけは5ドルで売ることにしました。それが500くらいは売れて。視覚障害者向けのゲームでこの数字はけっこう珍しいみたいで自信になりました。
ー 野澤さんがゲームづくりで得たものとは?
そうですね…それでいうとまずゲームをやるためにインターネットを覚え、ゲームをつくるためにコンピューターを覚えました。そこからサウンドデザイン、作曲、英語もやれるようになった。とくに高校時代でいえば、ゲームづくりで世界中にたくさんの仲間ができましたね。それはとてもよかったと思います。
― 就職先は、クラウド会計ソフトで知られる『freee』でプログラマーとして働くと伺いました。そこにある思いとは?
そうですね。高齢者や障害者など、あらゆる属性の人がWEBで情報にアクセスできるようにする「WEBアクセシビリティ」という領域があり、今はその研究をしているのですが…この領域にいれば、自分の障害を活かせるし、正直ラクだと思います。ただ、それだけでは食べていけない。
また、アクセシビリティの領域だけにい続けるということは、ある意味「見えない」というアイデンティティにすがりついて生きることになる。
もちろん、使えるものは使えばいい。ただ「見えない」だけを武器にしている以上、それがなくなった瞬間、自分のアイデンティティがなくなってしまうのが怖いんです。
最近いろいろと新聞やメディアに取り上げていただける機会が増えて。本当にありがたいのですが、それって「目の見えないプログラマー」だから珍しがってもらえているだけで。正直、自分の中には違和感があるんです。
だって僕よりもすごいプロダクトをつくり、注目されている人たちはたくさんいる。やっぱり「評価されるべきこと」でちゃんと評価されたい。それがないとダメだと思うんです。実力が伴ってなければ、「やっぱ見えないとこんなもんか」って言われてしまう。
「目が見えない」という自分に甘んじちゃいけない。これからひとりのプログラマーとして生きていくために厳しい修行と思って飛び込まないとだなと思っています。
(おわり)
取材 / 文 = CAREER HACK
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