WEBクリエイター、勅使河原一雅の作品には不思議な魅力がある。ひとたび触れると、その世界へと引きずり込まれる感覚に襲われる。作品を覆う独自の世界観の背景には一体何があるのか。そして彼は何を思い、何をつくるのか。全てのクリエイターが見つめるべき“つくる”ということの根源に迫る。
以前、CAREER HACKの取材にてカイブツのアートディレクター木谷友亮氏に「今、注目しているクリエイターは?」と質問したところ、勅使河原一雅氏の名前があがった。「qubibi」の屋号で活躍するWEBクリエイター/アートディレクターだ。
彼がつくりだす摩訶不思議な世界に触れると、そこへと吸い込まれていく異様な感覚がある。最近では新しいデビルマンの物語をモチーフにした『NURO DEVILMAN』特別サイト内で『DRIFTER』というコンテンツを発表した。
「みんなで“いいね”をし合う表現」ではなく、「個人の心に巣くう不安や孤独、そしてどこか懐かしさに触れられる表現」とでもいえばいいのだろうか。「ユーザーと一対一にさせる作品」と評されることも少なくない。特に最近ではソーシャルを意識したわかりやすいコンテンツが持てはやされる中で、一線を画す表現で注目される。
WEBにおいて孤高の存在ともいえる彼は一体何を思い、そして何をつくろうとしているのか。その個性=作家性はいかに醸成されてきたのか。作品が生み出される背景、そして“つくること”の根源に迫った。
― 勅使河原さんの作品はすごく個性的ですし、世界観が確立されていますよね。自ら「表現したいこと」があるのでしょうか?
よく世界観について言及されるけれど、それは他人からみたら連なる作品に貫かれてる一本の串のようなものですよね。僕自身はそれを意識していないんです。自ら表現したい何かがあって、それを打ち出そうと作ることは無い、そこには重点を置いていない。仕事への取り組み方も、当たり前のことを当たり前にしているつもり。毎回新しい気持ちでクライアントと信頼関係を築きながら挑んでいます。
― 例えば『DRIFTER』は最初からああいった作品になることをイメージしているんですか?
クライアントとシェアするようなレベルではそうですが、つくっているうちにだんだんと変わっていく部分は大きいですね。自分がやってきた行為をなかなか信用できないというのがあるんです。調子に乗ってきて明くる日には、これじゃダメだ、これじゃ伝わらないと。つくっては壊しての繰り返し。だから変わっていく。ドリフターでいえば、高崎卓馬さんによる“NURO DEVILMAN”と、永井豪さんによる原作のデビルマンの物語との両方を汲み取っていく。何を背景に生まれた作品か。永井豪さん、高崎卓馬さんはどんなものをつくってきたか。可能な限り調べた上で構想は出来上がるんです。ただ、その後も考えたり悩んだりがずっと続くんですよね。作品がちょっと姿を現してくる度に問題というか、わからないことが出てくる。その都度気になって追求しますし、今まで積み重ねたことを壊しもする。
最後まで自分の思った通りに再現することを考えていた時期もあります。でもそれだと息詰まる時がある。だから今は、作品をいきものだと思って作っています。そうすることで自分で自分を束縛することなく進められるというか。いきものは気紛れですし成長しますからね。いつのまにか作品が僕に向かってダメだしをするようになるし、それに平伏する僕がいる。ははーって。これじゃダメでしたか、じゃあこちらはいかがですか?といった具合に作品と作用反作用するような関係になり両者が更新されていく。振り回されて大変ではあるけど、反面すごく自由で、良い意味で作品との距離も生まれます。行ったり来たりするうちに、セレンディピティは高まって、作品にも様々なノイズが含まれていって、当初の僕では計り知れないなにかに化けたり。良いものにならない時は念じたりもしますよ。(笑) 神頼みみたいなこと。そんなこんなして作品は生々しさを持っていくんじゃないかと。
― そのようにして生み出されるqubibiの作品は、現在のWEB業界でも特異だと感じます。わかりやすいところで、今はソーシャルを意識したコンテンツが主流ですが、そこに乗っていない。
確かに今のWEBの状況では僕が作るものは珍しがられるんでしょう。自分自身の傾向があって、知らないうちにそういわれるようなものを作ってきた、ということだけど、周りと比較して焦って流れに合わせようとは、あまり思わないんです。世の中というか、人にはコントラストが必要ですしね。海が良いなと思って海で暮らすうちに、今度は陸を目指したくなることもあるでしょう。だから僕はここでこうしてるんだ!...と言えたら良いんだけど、実際は、神経質だからか空気読もうだなんてしたら疲れちゃうんです。(笑)
― より具体的な「つくるプロセス」という部分でもお話を伺えればと思います。まず、デザインとプログラミング、両方ともご自身で?
そうです。両方出来るようになろうなどとは考えたこともないけど、自然と。そこらへんの垣根は、今10代20代の方々にはもう無いんじゃないかな。勿論、分業した方が良いこともありますよ。ただ、今自分自身がやっていることの多くは自分がやるのが一番うまくいく。誰かと一緒に最後までずっと付き合ってもらうには気が引けちゃうけど、自分だけならどこまでもいけますから。
― 業界的にもデザインとプログラミング、両方できる作り手が求められています。どのようにしてプログラミングを学んだのでしょうか。
体系的に学んだ経験は何もないです。マウスカーソル乗っけたら動くの良いな~くらいのことがきっかけじゃないかな。よくわからないままソースコードをひたすら眺めていましたよ。いくら眺めてもわからない。ずっと平行線ですよ。でも半年程たってスッとわかる。不思議ですよね。言語を学ぶというのはそういうことか、という気もしますが、そもそも滑らかに成長曲線を描くって無いと思うんです。成長は階段のようにガタガタしてるように思います。
― もしデザインを中心にやってきた人がプログラミングもやろうと思った時、何から始めればよいと思いますか?
ありふれたことしかいえないけど、必要なことをその都度調べて、手を動かして形にしてモチベーションをキープする。あとはとりあえず手を動かせば調子に乗っていく場合もあるし、褒めてくれる人を探してみるのも良い。こんなのがつくりたいなーって欲求があれば楽ですけどね。
何かを実現する為の過程に過ぎないからと淡々と取り組むよりは、その行為から何かを享受できるかもとワクワクしてやってみたら良いと思います。実際にプログラミングに親しんでいくと、いろんなものの構造を抽象的に捉えるような感覚が得られるはずですよ。
― 仕事を依頼する側は「qubibi」のカラーを期待して...という部分が少なからずある気はしますが、そういうことは踏まえていますか?
僕自身にあるのは、驚いて欲しい、喜んでほしいという気持ちと、あとはさっき話したような「作り方」があるだけなんです。別に作ってる最中に意識しなくても、日常的な思考や体験は樹木の年輪のように刻まれていてカラーとなって滲み出ていく。堕落した毎日を送ってたらどうしようもないものが滲み出る。でもそれもまた転じて良いカラーになったりするかもしれない。
― 例えば、カラーにはどういうことが一番大きく反映されていると思いますか?
一貫したなにか、ということなら、幼少の頃の体験がほとんどだと思います。いつの間にかそこを覗いてることが多いです。幼い頃の体験の記憶って、もう色んな要素がぐっちゃぐちゃに絡み合ってるでしょう? 張り紙の上に張り紙を重ねているようなもので、その分厚さでいったら幼い頃に勝るものはない気がする...というか、過去しかないんです僕には。
― 「ユーザーと作品を一対一にする」と評されることも多いですが、それはどんなとこから?
昔良くゲームしてたんですよ。真っ暗な部屋でわりとずっとゲームしてた。ゲームって主人公も展開も自分の思い通りに動くと、なんだか世界に自分一人しかいない気がして寂しくなっちゃう。でも思い通りにならないようなゲーム、敵が強いとか、勝手に動くとか、毎回違うとか、あとは勝手に動くデモ画面とかは、妙に気持ちが落ち着くんです。自分だけではない別の世界を感じれるようなね。幼少時代は大人に見張らたり追いかけられたりしてるような異常な毎日だったから、その分、雨の日の車の中の安堵感のような場所を生活のあちこちに見出してたわけです。ゲームにしてもそう。つまり、僕は無意識のうちにでもそういう関係性に親しみがあって、一人でいる時に寄り添えるようなものをつくろうとしてきた、ということなのかもしれない。これがあれば一人でも大丈夫!みたいな。
― 冒頭で話題にあがった『DRIFTER』にもそういった部分が反映されている?
これも振り返ればという話だけど、ありますよ。5歳の時は目の前は広大な田んぼ、裏は山しかないようなアパートに母と二人で住んでいたんですが、その田んぼの真ん中には真っすぐに細い一本の道が通っていて、夕方くらいになると一人でよく散歩をしていたんです。黑、紫、赤、⻘...全部の色がぐちゃぐちゃに混ざったような壮絶な夕焼けがどこまでも広がって、カエルや鳥の声があちこちから鳴り響いている。道路に飛び出したカエルは車に轢かれてペッタンコになっちゃって、そのせいで空気がめちゃくちゃ生臭い。歩いているとだんだんと心細くなっていくけど、どこまで歩いても、振り返れば母のいるアパートが見える。暗くなっても光がみえる。そんな状況がそのまま反映されてると思います。でも、そういうことを作品の核としようと思っているわけじゃなくて、あくまでノイズなんです。
― 技術がどんどん進化しているし、表現も多様化していき…クリエイターはこれから何を支えにすればいいのか、そして生きる「場」をどこに見出せばいいのでしょうか?
まずはじめに、作っていないといられない、というのがあると思うんです。人それぞれに衝動としてありますよね。僕ならばその衝動は寂しさからきてる。すごく寂しがり屋なのかもしれない。(笑) または不安症ともいうかな。とにかくそういうことがものすごく嫌で、なにかをしてる。本当に根源的なところだけれど。
例えば、お酒を飲んだり、快楽的なことや薬を飲んだりすれば、その時に限り色々なことはどうでも良くなりますよ。でもお金はかかるし、なにも出来なくなるし、誰かを悲しませるし、そのうち死んじゃいます。つくるということは飽きずに一生できる理想的な行為ですよね。僕なんかそれがなければ酒浸りでしょう。何かしらつくる術を知った人は、つくれることで精神を安定させているんじゃないですかね。エネルギーを持て余して変なことをせずに済む。そう考えると、呪われているとかそういうことの現れかもしれない。業の深さ。つくれなくなったら堕ちるしかないような怖さがある。
どこに見出すかというよりはまず、その衝動には正直にしていったら良いと思います。つくる術を知ってるならそれをやるのが良い。勿論評価をされていくことは大事で、そこがないと結局続かなくなる。俯瞰して社会の中でどうなのかということ。自分を良いループに乗っけるような試行錯誤は死ぬまでずっとしていくしかないのではと思います。死ぬまで試行錯誤していって良いと考えたら少し気が楽になりません?
― 確かに焦りはなくなるかもしれませんね。ちなみに勅使河原さんは社会の中でご自身の作品がどうありたいと思いますか?
人って変化を拒むのに変化がないと堕落しちゃうでしょう。僕がやってるようなことは、フッと息を吹きかけたら消えてしまうようなことだけれど、そうした変化の代替としてありたいです。とはいっても自分が夢中になれることを続けていくだけで、結果がそうなら良いと。
― 最後にパーソナルな質問になるのですが、お子さんがいると伺いました。もし子育てなどを通じて感じたことがあれば教えてください。
息子は今10歳ですが、2歳から育てて今まで彼の影響は計り知れない。放っておけない子どもの存在は、究極の他人、究極の現実でしたから。
これは子供に限らずだけど、基本的には自分のことを見てない時の方が心地良いんですよ。こっちみてニコニコとかはたまにで良い。何かを好きになって夢中になって、そっぽ向いてその人なりの世界を愉しんでてくれる方が良い。その姿を後ろからそっと眺めていたい。
そういうのが最高ですよ。
※内容を補足するため、掲載時から一部加筆を行ないました。
(2014/03/28 CAREER HACK編集部)
(おわり)
[取材]白石勝也
編集 = 白石勝也
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