紙メディアでは当然の「校正・校閲」が、WEBメディアにどこまで必要かという問題提起から、話題はWEBメディアにおける「信頼性」の問題へ。実体のない情報というものを扱うのがメディア。だからこそ、メディアの信頼性は、メディアを運営する「人」の信頼性と同義だと言える―。
NHN Japan 田端信太郎のWEBメディア論。[第1回:マネタイズ]から読む
NHN Japan 田端信太郎のWEBメディア論。[第2回:コンテンツクオリティ]から読む
― WEBメディアにおいては「時間をかけて作ること」や「厳しく校正・校閲をすること」が、必ずしも「クオリティの高いコンテンツを作るための必要条件」とはならないと仰いました。それは「フロー型」と「ストック型」の差による違いというわけではないのでしょうか?WEBメディアの場合はフロー型だから、それが許されるというだけであって。
いや、Wikipedia なんてめちゃくちゃ「ストック型」じゃないですか。もちろんちょっとずつ変わってはいくんですけど、でもすでに紙の百科事典よりWikipediaのほうが信用できませんか? Wikipediaの話をすると必ず信頼性の議論になると思うんですけど、Wikipediaで明らかな間違いを見つけたことって、ほとんどないですよね。
もちろん間違っていることがないというわけではないですが、紙の辞典だって何も100%正しいとは限らない。教科書だって、歴史なんかは新しい事実によって書き換わることもある。そもそも普遍の真理なんてそうそうないわけです。
― 情報の信頼性に関する議論はまさに伺いたかったところです。紙の場合は、「専門家が関わった」「専門家が校正・校閲した」ということが信頼性の担保になっているとも言えますよね。
実はこれ今度出る僕の本(『 MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体 』)でも取り上げた事例なんですけど…すみません宣伝で(笑)
大事なお客さんの接待をするとします。食べログで探したお店にいって、そこで粗相があって「何でこんな店にしたんだ!」と怒られちゃったとする。「食べログの評価が高かったんで…」と言うと、大抵「アホかお前!」となりますよね。
でもそれが「ミシュランで探しました」だったら、怒られないじゃないですか。
学校で国語のテストの答案がすごくグレーなところでバツだったとき、「広辞苑の定義によると僕の答えは合ってるように思えるんですけど」って言われたら、先生もなかなか弁解しにくいんじゃないですかね。
信頼性って、結局はそういうことでしかないんだと思います。「正しいかどうか議論するとキリがないから、もうここらへんで正しいことにしておきましょうよ」という、暗黙の了解として機能するものでしかない。
実際、広辞苑に書いてあることがどこまで正しいのか追求したところで答えは出ないわけで、日常生活でそんなこといちいち議論してたらキリがない。だから、
「ミシュランに載ってるお店は一流店」「VOGUEに載ってるファッションは最新トレンド」
ということにしておきましょうと。つまり、メディアは信頼性というラベルを押し着せられているとも言えるわけです。
これは非常に怖いことですよ。iPS細胞の問題だって、もし読売新聞の報道に他紙も追随してそのまま誤報に気づけなかったとしたら、国民の大多数は森口さんをすごい人だと認識したまま、誰も真偽を確かめられないんです。良くも悪くも、メディアにはこの手の恐ろしさが必ずつきまといます。
― そのためか、紙メディアは運営母体がしっかりしているところが多いですよね。でもWEBメディアは極論、個人でパッと立ち上げることができてしまう。圧倒的に参入障壁が低い。そういった状況下で出てきたものが、はたしてメディアとしての責任を果たせるのかどうか…。
そこでいくと、新聞社だろうとTV局だろうと、これまでメディアとしての責任を果たしてきていたのか。よく言われることですが、朝日新聞の戦争報道の問題とか、実際それに対して何らかの責任を果たしているわけじゃないじゃないですか。
少なくとも、紙メディアだけが責任を果たせてWEBメディアは責任をとれないというのは偏見だと思います。
それに現実的な話をすると、一度WEBに載った情報ってすぐに一人歩きしていくものなので、最終的にメディア側で責任を取りきれない部分もありますよ。せいぜいクビになったり、会社がツブれるくらい。
だから、最終的には受け手の問題なんです。受け手がメディアリテラシーを養わないといけない。
もちろん、メディアに携わるプロとして責任を人におっかぶせる行為はあり得ないですよ。作り手側は極限までモラルを高めて臨まないといけない。でも「メディアを作っている人は聖人君子だから、無知蒙昧な読者は全面的に信じていい」というのは受け手の態度としては大きな間違いで。信じた情報が間違っていたとしても、誰も責任とってくれないんだということは理解しておいたほうがいいと思います。
― 信頼性の高い情報と事実・真実は必ずしもイコールではなくて、イコールではなかったからといって、メディアが責任をとるわけではないと。
今、渋谷の駅前で何か事件が起こったとして、個人がスマホで写真を撮ってTwitterに載せただけでも、行為としてはメディアのやる報道と同じことですよね。一度でもそういう経験をしたことのある方ならお分かりいただけると思うのですが、写真のフレームの外に撮られていない事実があるということが、現場にいるとすごくよく分かるじゃないですか。ところが、受け手として写真だけを見ていると、その写真が事件のすべてだと感じてしまう。
事件の被害者と目されているときは善人にみえる顔写真が使われるんだけど、容疑者だとされた途端に悪人に見える写真に変わることって、よくありますよね。
その感覚が分かっているかどうかって、かなり大きいと思いますよ。プロじゃなくてもいいから、一回はみんな情報の送り手になってみる経験をすべきだと思う。そうすると、情報の裏側にある構図が透けて見えるようになってくると思うし、少なくとも無意識的に受けとるだけではいられなくなると思います。
― なるほど…。メディアに問われる倫理観とか責任って何なのだろうと、考えさせられるお話ですね…。
もちろん、WEBメディアにはWEBメディアなりの倫理観があるとは思います。例えばGoogleは、FacebookやAppleという競合に対して、検索結果をいじって、いくらでも情報操作できる立場にあるじゃないですか。ただ、そういうことをやっている素振りは一切ないですよね。
Facebookが流行りだしたとき、Google上のクエリで「Facebook」という検索が増えている兆候があったはずなのに、 検索順位をワザと下げたりは、まずしていなさそうです。もし、そんなことがあれば、Googleの存立基盤を揺るがす、大スキャンダルになるでしょうね。むしろ、天安門事件の検索結果の変更を拒否して中国を追放されているくらいですから。
それはもう、旧来のジャーナリスト魂にも劣らない、損得勘定を超えた“モラル”が備わっている証だと思います。みんな、そういうGoogleの態度をみて、無意識的に信頼を寄せているんじゃないですかね。
僕はそもそもメディア業って、金融業と同じで特殊な仕事だと思うんです。原始的な社会だと、なくてもいいものじゃないですか。でも、社会が発展するとウェートが大きくなってくる。
そして何より、扱うものの“実体”がない。トヨタが真面目にクルマを作っていることは、ショールームに行って、ドアの締まり具合とか確かめれば分かるじゃないですか。でも、野村證券が主幹事でIPOしたネットベンチャーがあったとして、刷り上がった株券を触っても…「野村證券すごいな」とはならないですよね。
実体がないものを扱っている以上、結局はやっている人間を信じるかどうかになるんですよ。メーカーの良し悪しは「モノ」で判断できるけど、メディアも金融も「モノ」がないので、結局はやってる人間をまるごと信じられるかどうかになる。だから、“はったり”と“実力”の区別もつきづらいし、“スキル”と“人格・倫理観”を区別して捉えることも難しい。根源的に突き詰めていくと、本当にフシギ。フシギな仕事だと思います。
― このあたりの議論はいくらやっても話が尽きませんね…。時代の移り変わりによって、何を結論とすべきかも変わってくる問題なのかもしれません。ぜひまたお話を聞かせてください!
(おわり)
11月12日、田端さん初の著書『MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体』が発売されています。数々のメディアを立ち上げた確かな経験から導き出された「WEBメディア観」が体系的にまとまった良書です。こちらもぜひチェックしてみてください!
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